深淵なる宇宙へ

ブラックホールは情報を破壊するのか? 量子論と一般相対性理論の衝突点に迫る謎

Tags: ブラックホール, 情報パラドックス, 量子論, 一般相対性理論, ホーキング放射

宇宙最大の謎の一つ「情報パラドックス」

宇宙には、私たちの理解をはるかに超える謎が数多く存在します。その中でも特に深く、物理学の根本原理に挑戦を突きつけるものの一つに、ブラックホールに関する「情報パラドックス」があります。

ブラックホールは、極めて高密度な質量が一点に集中し、その強大な重力によって光さえも脱出できない領域を持つ天体です。この光も抜け出せない境界を「事象の地平面」と呼びます。事象の地平面を超えてブラックホールに落ち込んだものは、外からは決して観測できません。相対性理論によれば、ブラックホールの内部に落ちた物質やそこに含まれる情報は、ブラックホールそのものに吸収されて、二度と外部に戻ることはないと予言されます。

しかし、20世紀後半、物理学者スティーブン・ホーキング博士は、ブラックホールが全くの暗黒ではなく、わずかな粒子を放出していることを理論的に示しました。これは「ホーキング放射」と呼ばれています。この放射によって、ブラックホールは質量を失い、長い時間をかけて最終的には蒸発・消滅すると考えられています。

ここで大きな疑問が生じます。もしブラックホールが蒸発して消滅するとしたら、中に落ち込んだ物質や情報は一体どうなるのでしょうか? ブラックホールが完全に消えてしまったら、そこにあった情報はどこに行ってしまうのでしょうか?

相対性理論と量子論の衝突

この疑問が「情報パラドックス」の本質です。相対性理論では、ブラックホールに落ち込んだ情報は失われると考えられますが、量子力学の基本的な原理は、情報は決して失われない、つまり「情報不滅の法則」あるいは「ユニタリ性」を主張しています。私たちの宇宙の状態は、原理的には常に過去に遡って追跡できるはずだ、というのが量子力学の考え方です。

例えば、一冊の本を燃やして灰にしたとします。古典的な感覚では、本の内容(情報)は失われたように思えます。しかし、量子力学的に見れば、灰、煙、熱といった燃焼の過程で放出されたすべての粒子やエネルギーの状態を詳細に調べつくすことができれば、そこから元の本の状態を完全に復元できるとされます。情報は形を変えるだけで、宇宙から失われることはないのです。

しかし、ブラックホールの場合、ホーキングの計算によれば、放出されるホーキング放射は吸い込まれた物質の種類に関わらずランダムであり、ブラックホールに何が落ち込んだかという情報を含んでいないように見えました。これは、量子力学が保証する情報不滅の原理と真っ向から対立するものです。まるで、燃え尽きた灰から元の本の内容を絶対に復元できない、と言われているような状況です。

この、相対性理論に基づくブラックホールの振る舞いと、量子力学の基本原理との間の矛盾こそが、ブラックホールの情報パラドックスなのです。これは単にブラックホールの性質に関する問題にとどまらず、私たちが時間や空間、そして宇宙そのものをどのように理解しているかという、物理学の根幹に関わる問題なのです。

謎の解明に向けた最前線

情報パラドックスは長年、物理学者たちを悩ませてきました。この謎を解決するため、様々な理論的アプローチが試みられています。

興味深いことに、このパラドックスを提唱したホーキング博士自身も、晩年には考えを改め、情報が失われない可能性を示唆しました。これは、ブラックホールの事象の地平面付近で、量子力学的な効果によって情報が何らかの形でエンコードされ、ホーキング放射に乗って外部に戻される、という考えに基づいています。

情報パラドックスの解決の鍵は、おそらく一般相対性理論(重力を記述)と量子力学(素粒子やミクロな世界を記述)を統一する「量子重力理論」にあると考えられています。宇宙の始まりやブラックホールの中心といった極限的な環境では、この二つの理論を組み合わせた新しい物理学が必要になるとされています。超弦理論やループ量子重力理論といった候補となる量子重力理論の研究は、情報パラドックスの解決を目指す上でも重要な役割を果たしています。

また、近年では「量子情報理論」の手法を用いて、ブラックホール内部や事象の地平面付近で情報がどのように振る舞うかを解析する研究も進んでいます。ブラックホールが微小なワームホール(時空のトンネル)と量子もつれによって繋がっているとする考え方など、非常に興味深いアイデアが提案されています。

まとめ:宇宙の根本原理に迫る謎

ブラックホールの情報パラドックスは、観測的に直接検証することが極めて困難な問題です。私たちはまだ、ブラックホールの内部を覗き見たり、蒸発の最後の瞬間を捉えたりすることはできません。しかし、この理論的な謎を巡る探求は、物理学に新たな視点をもたらし、量子力学と一般相対性理論の統一という究極的な目標に向けた重要な一歩となっています。

情報パラドックスは、ダークマターやダークエネルギーといった他の未解明現象とは性質が異なりますが、いずれも既知の物理法則だけでは説明できない、宇宙の深遠な謎を探求する試みという点では共通しています。この謎が完全に解き明かされる時、私たちは時空、重力、そして情報といった宇宙の根本原理について、より深い理解を得られることになるでしょう。