宇宙を測る定規の不一致:ハッブル定数問題とダークエネルギー
宇宙の膨張速度を巡る謎
私たちの宇宙は今から約138億年前に誕生し、それ以来膨張を続けています。この膨張速度は宇宙全体の構造や進化を理解する上で非常に重要な物理量であり、「ハッブル定数」という値で表されます。ハッブル定数が分かれば、宇宙の年齢や未来の姿を予測することができます。
しかし最近、この宇宙の膨張速度、つまりハッブル定数の値を巡って、宇宙論の専門家たちの間で大きな議論が巻き起こっています。それは、異なる観測方法で得られたハッブル定数の値に、無視できないズレが見つかっているからです。このズレは「ハッブルテンション(ハッブルの緊張)」と呼ばれており、私たちがこれまでに築き上げてきた標準的な宇宙モデルに、何か未知の要素が欠けている可能性を示唆しています。
ハッブル定数とは何か?
ハッブル定数は、簡単に言えば「宇宙の膨張がどれだけ速いか」を示す定規のようなものです。宇宙のどの地点を見ても、遠くにある銀河ほど私たちから速い速度で遠ざかっています。ハッブル定数は、この「距離」と「遠ざかる速度(後退速度)」の関係を表しており、単位は通常「キロメートル毎秒毎メガパーセク」で示されます。これは「1メガパーセク(約326万光年)離れた銀河は、1秒間に何キロメートルの速さで遠ざかっているか」という意味です。
この定数は単なる速度ではなく、宇宙の進化の歴史と深く結びついています。ハッブル定数の正確な値を知ることは、宇宙がどのように膨張してきたのか、そして将来どうなるのかを理解するために不可欠です。
異なる観測が示すズレ
問題となっているのは、ハッブル定数を測定する主要な二つのアプローチが、統計的に有意な異なる値を示している点です。
1. 初期宇宙からの「予測」
一つ目のアプローチは、宇宙誕生からわずか38万年後の非常に古い時代の観測に基づいています。この頃、宇宙はまだ高温高密度のプラズマ状態でしたが、そこに存在したわずかな密度のムラ(ゆらぎ)が、現在の宇宙の大規模構造の種となりました。
宇宙マイクロ波背景放射(CMB)という、宇宙最古の光を観測することで、この初期のゆらぎのパターンを詳しく調べることができます。欧州宇宙機関(ESA)のプランク衛星による精密なCMB観測データと、現在の標準的な宇宙モデルである「Λ-CDMモデル」(ラムダ・コールドダークマターモデル:宇宙の成分をダークエネルギーΛと冷たいダークマターCDM、通常の物質、ニュートリノなどで構成されると仮定するモデル)を用いると、宇宙がどのように膨張してきたかを理論的にたどり、現在のハッブル定数の値を「予測」することができます。
この方法で得られるハッブル定数の値は、おおよそ「秒速約67キロメートル毎メガパーセク」となります。
2. 近傍宇宙での「測定」
もう一つのアプローチは、比較的近い宇宙にある天体までの距離と、それらが遠ざかる速度を直接「測定」する方法です。この方法では、「宇宙の距離梯子」と呼ばれる様々な手法が組み合わされます。
例えば、特定の種類の超新星であるIa型超新星は、爆発する際の明るさがほぼ一定であることが知られています。この「標準光源」としての性質を利用すれば、見かけの明るさからその超新星までの距離を高い精度で求めることができます。また、特定の変光星であるケフェウス変光星も、明るさが変化する周期とその本来の明るさに関係があるため、距離測定に使われます。
これらの標準光源を使って様々な距離にある銀河までの距離を測り、同時に銀河が遠ざかる速度をスペクトル観測から求めれば、現在のハッブル定数の値を直接的に「測定」することができます。
この方法で得られるハッブル定数の値は、おおよそ「秒速約73キロメートル毎メガパーセク」となります。
「ハッブルテンション」の現状
初期宇宙からの「予測」値(約67km/s/Mpc)と、近傍宇宙での「測定」値(約73km/s/Mpc)の間に、統計的に有意なズレが見られる――これが「ハッブルテンション」です。このズレは単なる観測誤差では説明しきれないほど大きくなっており、宇宙論研究者たちの頭を悩ませています。まるで、宇宙を測るために使っている異なる二本の定規が、同じものさしで測っても違う値を示すかのようです。
このズレは何を意味するのか?
ハッブルテンションが本当に実在するズレであるならば、それは私たちの宇宙に対する理解がまだ不完全であることを強く示唆しています。可能性としては、主に二つが考えられます。
1. 観測上の系統誤差
一つ目の可能性は、いずれかの測定方法、あるいは両方の方法に、まだ気づいていない系統的な誤差が含まれているというものです。Ia型超新星やケフェウス変光星の性質に、まだ解明されていない宇宙的な要因(例えば、それらが存在する環境の違いなど)が影響を与えているのかもしれません。あるいは、初期宇宙からの予測に使う宇宙マイクロ波背景放射のデータ解析や、それを標準宇宙モデルに当てはめる際の仮定に問題がある可能性も考えられます。研究者たちは、この可能性を排除するために、様々な角度から観測データや解析手法の検証を進めています。
2. 標準宇宙モデルを超える未知の物理
二つ目の、そしてよりエキサイティングな可能性は、現在の標準宇宙モデルであるΛ-CDMモデル自体が不完全であり、宇宙にはまだ私たちが知らない未知の物理が存在するというものです。
例えば、宇宙の加速膨張を引き起こしている「ダークエネルギー」の性質が、これまで考えられていたような一定の値(宇宙定数Λ)ではなく、宇宙の歴史の中で変化してきたのかもしれません。もしダークエネルギーが初期宇宙と現在の宇宙で異なる振る舞いをしていれば、初期宇宙のデータから現在のハッブル定数を予測する際にズレが生じる可能性があります。
また、標準モデルには含まれていない未知の素粒子(「ダーク放射」などと呼ばれる非常に軽い粒子)が初期宇宙に存在し、宇宙の膨張に影響を与えていた可能性も指摘されています。ダークマターと他の宇宙成分との間に、これまで知られていなかった相互作用があるのかもしれません。あるいは、私たちが宇宙の根幹を記述するために用いている一般相対性理論が、宇宙論スケールでは修正を必要とするのかもしれません。
これらの未知の物理は、ハッブルテンションを解消する鍵となる可能性を秘めており、同時に、ダークマターやダークエネルギーといった宇宙の謎に迫る新たな糸口となります。
今後の展望
ハッブルテンションの問題は、宇宙論の最前線における最大の謎の一つです。このズレが観測誤差によるものなのか、それとも未知の物理を示唆しているのかを明らかにするために、世界中で新たな観測計画が進められています。
例えば、前述のEUCLID衛星は、宇宙の大規模構造や銀河の分布を詳細に調査することで、ダークエネルギーの性質や宇宙膨張史をこれまで以上に精密に測定することを目指しています。また、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)は、遠方のIa型超新星やケフェウス変光星をより正確に観測することを可能にし、近傍宇宙からの距離測定の精度向上に貢献することが期待されています。さらに、新しいタイプの標準光源や距離測定手法(重力波源やバリオン音響振動など)を用いた観測も進められており、ハッブル定数の測定精度がさらに高まることで、このテンションが解消されるのか、あるいはより確固たるものとなるのかが明らかになるでしょう。
ハッブルテンションは、単なる数値のズレではありません。それは、私たちが宇宙の仕組みをどこまで理解できているのか、そしてどこに未知の領域が広がっているのかを教えてくれる重要な指標です。この謎が解き明かされたとき、ダークエネルギーの正体や、これまで想像もしなかった新たな宇宙像が明らかになるかもしれません。深淵なる宇宙の謎に迫る探求は、今まさに決定的な局面を迎えているのです。