宇宙の網が語るダークマターの正体:温かいダークマター候補と大規模構造形成の謎
宇宙を支配する見えない物質:ダークマターの謎
私たちが観測できる星や銀河、ガスなどは、宇宙全体の物質・エネルギーのわずか5%に過ぎません。残りの約95%は、その正体がまだ明らかになっていない「見えない何か」で構成されています。そのうち約27%を占めるのが、光を発さず、電磁相互作用もしないと考えられているダークマターです。ダークマターは重力によってのみ他の物質と相互作用し、銀河や銀河団の形成、そして宇宙全体の大規模構造の成長に不可欠な役割を果たしています。
これまで、ダークマターの正体として最も有力視されてきたのは、「冷たいダークマター(Cold Dark Matter, CDM)」と呼ばれるモデルです。これは、宇宙初期にごくゆっくりと運動していた、あるいはほとんど運動していなかった粒子であると仮定します。CDMモデルは、宇宙論的なスケール、つまり広大な宇宙に広がる銀河や銀河団の集まりが作る「宇宙の大規模構造」を驚くほどよく説明できるため、標準的な宇宙モデルの根幹をなしています。
しかし、CDMモデルは、小さなスケール、特に個々の銀河や矮小銀河の内部構造に関して、いくつかの課題を抱えていることも事実です。例えば、銀河の中心付近でダークマターの密度が予測よりも緩やかになる「コア・カスプ問題」や、予測される矮小銀河の数よりも実際に観測される数が少ない「欠落サテライト問題」などがあります。これらの問題は、もしかしたらダークマターの性質が、完全に「冷たい」わけではないのかもしれない、という可能性を示唆しています。
ダークマターは「温かい」可能性?:温かいダークマター候補とは
そこで注目されているのが、「温かいダークマター(Warm Dark Matter, WDM)」という別の可能性です。WDM粒子は、宇宙初期に光速に近い速度で運動していた時期があり、その運動によって、宇宙初期の小さな密度ゆらぎのうち、特に小さなスケールのものを「洗い流す」効果を持っています。例えるなら、砂浜の細かい砂粒(小さなゆらぎ)を波(WDM粒子の運動)がさらっていくようなイメージです。
これにより、WDMモデルでは、CDMモデルに比べて小さな構造(例えば矮小銀河やその前駆体)ができにくくなります。結果として、宇宙に形成される銀河などの構造は、CDMの場合よりも全体的に「滑らか」になり、小さな銀河の数も少なくなる傾向があります。
WDMの具体的な候補としては、非常に質量が軽く、光速に近い速度で飛び回るニュートリノ(ただし標準モデルのニュートリノでは軽すぎるため、質量上限からWDMの主要候補とはなりにくい)や、仮説上の粒子である「ステライルニュートリノ」などが考えられています。これらの粒子の質量や性質によって、「温かさ」の度合い、つまり宇宙初期にどれだけ速く運動していたかが決まり、それが宇宙構造形成に与える影響の大きさが変わります。
宇宙の大規模構造が語るダークマターの温度
では、私たちはどのようにしてダークマターが冷たいのか、それとも温かいのかを知ることができるのでしょうか?その鍵となるのが、宇宙に実際に存在する構造、特に大規模構造や小さな銀河の分布を精密に観測することです。
1. 銀河の数と分布
WDMモデルでは小さな銀河ができにくくなるため、観測される矮小銀河の数が、WDMの「温かさ」に対する重要な制約となります。様々な深宇宙探査によって観測される銀河の数を数え、その質量や分布を調べることで、ダークマターのモデルを検証しています。
2. ライマンアルファの森
もう一つの有力な手がかりは、宇宙に広く分布する水素ガスの痕跡である「ライマンアルファの森」です。これは、非常に遠方にあるクエーサー(活動銀河核)から届く光が、地球までの道のりにある水素ガスを通過する際に特定の波長で吸収されることで生じる、スペクトル上の多数の吸収線パターンです。この吸収線のパターンは、宇宙初期の水素ガスの分布、すなわちダークマターの小さなスケールの密度ゆらぎの情報を内包しています。
WDMが存在する場合、小さな密度ゆらぎが抑制されるため、ライマンアルファの森のパターンにもその影響が現れます。最新の観測データを用いた分析では、ライマンアルファの森のパターンがWDMの存在を強く制限しており、現在観測されているデータは、WDMモデルよりもCDMモデルをより強く支持する傾向にあります。これにより、WDM候補粒子が持つ可能性のある質量にも厳しい下限値が設けられています。例えば、ステライルニュートリノのような候補であれば、その質量が一定以上重くなければ、観測されている宇宙構造と矛盾してしまうことが分かっています。
今後の展望:ダークマターの正体解明へ
現在のところ、宇宙の大規模構造やライマンアルファの森といった最新の観測結果は、完全に冷たいダークマター(CDM)と完全に温かいダークマター(WDM)の間の、比較的「冷たい」方に近いダークマター像を示唆しています。完全に温かいダークマターが宇宙の大部分を占める可能性は低いと考えられています。
しかし、WDMモデルがCDMモデルが抱える小規模構造の問題を解決するヒントを与えている可能性も否定できません。また、「超冷たいダークマター(Ultra-light Dark Matter, ULDM)」や「ファジーダークマター」と呼ばれる、非常に軽い粒子で構成されるモデルも提案されており、これらもまた宇宙の構造形成に独自の痕跡を残すと予測されています。
ダークマターの正体は、それがどの程度の速度で運動する粒子なのか、つまり「温かい」のか「冷たい」のかという性質に深く関わっています。宇宙の大規模構造という壮大な「網」の観測は、その網の目の一つ一つにダークマターの温度に関する情報が刻まれていることを示しています。今後、さらに高精度な宇宙観測やシミュレーションが進むことで、この見えない宇宙の主役であるダークマターの真の姿が、より鮮明に描き出されることが期待されます。それは、私たちが宇宙をどのように理解するかという根本的な問いに対する答えとなるかもしれません。